「識者の声」

第1回「健康とは ~生き方・死に方を考える」平成24年02月02日

 

日本は高齢化において世界の先頭を走っています。“団塊世代”がこれから20年後には80代となり、まさに前人未踏の超高齢社会を世界に先駆けて経験することになります。社会保障制度の改革はもちろん重要課題ですが、医療や行政だけでは到底対処できない事態に直面しています。国民一人ひとりが医療や福祉制度への“依存”を改め、自分がどう生きて、どう死んでいくのかを自ら決める時代が到来したことを十分認識する必要があります。

医療の進歩にともない、自宅での“出産や看取り”は激減し、生や死との対面が生活から隔離され、医療機関の中で行なわれるようになりました。「安全・安心」の充実が図られたとは言いながら、そのために日常では「生」や「死」について考える機会がほとんどなくなってしまいました。医療機関に運ばれてはじめて、自分の「生」「死」について、追い詰められた状態で考えさせられているのが現状だと思います。

「死」は100%誰にでもやってくるのです。いつ訪れるか分からない「死」ではありますが、日常から切り離さず「死」というゴールに向かって、自分がどんな生き方をしたいのか考えることが、高齢化先進国の住民として最も大事なことではないでしょうか。

そもそも「健康」とは何でしょう。「健康日本21」の目的には、“健康寿命の延伸”と明記されていますが、実は健康そのものの定義が曖昧なため、その評価ができないのが現状です。血圧や血糖値が正常という、数値で判断された健康が本当の健康でしょうか。たとえ障害があっても寝たきり状態だとしても、健康だと感じられるその時が健康なんだと思います。何も医療者から健康・不健康のレッテルを貼られる必要はないのです。「健康とは幸福」と明言される方もおられますように、健康はさせられるものではなく自ら感じるべきものなのです。

自分らしく、快適に人生を送る。こうした目的を持つことで、日々の生活に主体性が生まれ、それが健康を感じられる大きな力となるのです。

これからの超高齢社会に大切なことは、自分の生き方・死に方を自ら考えること。「死なないため」ではなく、自分らしい生き方・死に方をするための健康づくりや疾病管理を考えることだと私は思います。そのためには、医療に依存することのない、「医療を活用する」という意識を是非持っていただきたい。「満足できる人生だった」と言えるような生き方をすることが、長寿力を養うということになり、超高齢社会を迎え入れる最も有効な方法だと考えています。

 

 

第2回「ストレスを原動力に」 平成24年02月02日

 

我が国の自殺による死亡率は、世界の先頭を走っています。3万人を超える自殺者が毎年減ることもなくこの数年継続しているのです。自殺予防キャンペーンなどの啓発事業や相談窓口の設置など、行政も取り組んではきてはおりますが、改善にはつながらず行き詰まった状況です。

一方地域では、腹囲に着目したいわゆるメタボ(メタボリックシンドローム)対策にこのところ重点がおかれていますが、日本人の肥満状況は欧米諸国から見れば極めて低いレベルにあります(肥満者は米国の10分の1)。将来に向けて“警鐘を鳴らす”といった観点から見れば、メタボ対策はマスコミの話題づくりや健康関連企業のビジネスチャンスにもつながり、国民の一大関心事となったことは、評価していいかもしれません。しかし、わが国の課題はむしろ心の健康であり、最悪の結果である自殺やその最要因であるうつ病への対策に積極的に取り組んでいく必要性を痛感しています。

しかし経済不況を背景に、先の見えない不安が容赦なく襲いかかっています。ストレスを避けることは至難の技で、本来誠実が売りの日本人の国民性には、極めて深刻な影響をもたらしています。ストレスのない生活を送っている人は極めて少なく今後増える一方だといっても過言ではないでしょう。行政や専門家頼りでは到底解決しそうにありません。それぞれがむしろストレスと向き合い、どう付き合っていくかを、自ら考えることが鍵となるでしょう。

一つにストレスの原因(ストレッサー)を見極めることができれば、その反対の行動をとるなど、ストレスの解消はある程度できる場合も少なくありません。一方ストレッサーを避けずにどう付き合うかも重要で、ストレスを活用するという考え方が肝要です。

ストレスと上手に付き合うためには、そのポイントは、「やらされ感覚」を「自ら取り組む主体性」に切り替えることだと思います。手段に振り回され、目的があいまいとなり、いつの間にかやらされている感覚になり、それがストレスを抱え込んで悩むことにつながるのだと思います。目的の明確化・共有化をはかり、主体性を引き出すことが、ストレスと上手に付き合う第一歩です。狙いが明確になれば、最も重要なことが見えてきて、枝葉のことに振り回されることなく、本質を見て、着実に取り組んでいくことが可能になります。目の前の手段に振り回されず、やらされ感覚から脱却することです。目的(ミッション)を実現するためにストレスがかかると認識して、むしろそのストレスを原動力にしていく姿勢が大切だと思います。目的を見直すほんの僅かな“ゆとり”を確保することがその分かれ道になるのだと思います。

 

 

第3回「医療の目的の変化」 平成24年02月02日

 

20世紀は西洋医学の急速な進歩に伴い、医療の最大目的が“命を救うこと”に置かれ、診断・治療が中心の医師主導型の時代が長く続きました。その後治療できる疾患が増えた一方、高齢化の急速な進行や生活習慣病の増加に伴い、治らない“共存”すべき疾患も目立ってきました。そのため20世紀末には、“患者満足度・QOL(生活の質)の向上”がキーワードとして強調され、医療者主導の「良かれ・してあげる医療」から、“安心・選択”といった「患者の希望に沿える支援としての医療」が重要な視点へと変化してきました。

そして21世紀に入ってからは、医療者と患者とのパートナーシップが強調され、これまでの医療の範疇を超えて、生活全般にわたる協働が重要とされるようになりました。生き方・死に方を患者自身が選択・決定できるような、生活とつながった医療環境が必要になったのです。しかし実際には医療の目的の変化に対応した医療者と患者の関係には至っていないのが現実です。

医療機関は「急性期」「亜急性期」「回復期」「維持期」などといった機能分化が進み、互いの連携は極めて重要課題となり、その範囲は保健・福祉さらに地域生活全般へと広がってきました。つまり医療機関はより地域に根付いた資源として位置づけられるようになったのです。「施設完結型から地域完結型へ」のキャッチフレーズは、医療機関どうしの連携にとどまらず、医療機関が地域特性を踏まえた上で、他の地域資源とも連携して、患者の真のニーズを実現するために“協働”することが求められるようになりました。さらに、患者の真のニーズに応えるべく、“パートナーシップ・生活支援・エンパワメント(内なる力の賦活化)”などをキーワードに、診断・治療を超えた生活全般を考えた対応が重要になりました。すなわち、患者とのコミュニケーションはもちろんのこと、多くの地域資源との連携・協働による患者の“ 生き方・死に場所を決める”方向へと、医療はこれまでの価値観の急激な変化が求められるようになりました。医療者はもちろん、住民自身がこの変化を理解し十分踏まえて医療を活用する必要があるのです。
 

第4回「長寿国を築き上げてきた日本の医療の特徴」  平成24年02月02日

 

日本の平均寿命は世界一レベルであり、今後世界の先頭を切って前人未踏の超高齢社会に突入します。老人医療費の急増による医療費の高騰や、へき地・郡部の深刻な医師不足問題等を背景に、医療制度の見直しを迫られています。確かにこのままの医療システムを継続することは、経済的にも人材的にも不可能だと言っても過言ではありません。しかし見直しの前に、これまでの日本の医療について、その特徴を十分理解しておくことが肝要だと思います。国際比較から見ると特に以下のような点が挙げられます。

1)  先進諸国中で総医療費(対GDP比)も個人当たりの医療費も最も低いレベル。

2)  国民皆保険制度の下、いつでもどこにでも受診できる環境(フリーアクセス)が、医療機関の利用を促進させており、医師1人当たりの診察件数は欧米諸国の4倍にも達する。

3)  人口あたりの病床数が多く、平均在院日数は欧米先進国の約4倍であり、療養も含め概ね回復した状態までフォローして退院する例が多い。在宅や地域で医療を受けるケースは少ない。

4)  CT・MRIなど高度な医療機器の台数が圧倒的に多く、しかも身近な医療機関で利用でき、疾病が早期に発見され治療につながりやすい環境がある。

国際比較ではこのように、人口当たりの病床数や先進医療機器保有数の多さはわが国の特徴であり、そのことがしばしば医療費高騰の要因として指摘されてきました。しかし実際には、日本の医療費は諸外国と比べてむしろ明らかに低い実態から、医療費を下げる目的で、国際間の差をとにかく是正するといった対応は適切でないようにも思います。

近年医療費抑制に主眼を置いた制度的要因から、急性期病院の平均在院日数短縮化が急速に進んでいますが、その影響で医療難民・介護難民急増を招くという問題点が指摘されています。これまでのシステムを真っ向から否定し、諸外国特にアメリカの制度との比較から、急激な改革を進めるより、日本の実情にあった改善が、国民相互理解の下で進められることを期待します。

確かに住民の医療への依存度が高い状況を 今こそ見直す時ではあると思います。しかし、個人負担の増加や入院期間の短縮化といった制度誘導ではなく、国民自身がこの超高齢社会に、医療をどう活用していくかを明確にしていくことが求められていると思います。そして日本の医療や介護について、必要に迫られる前に理解し、いざという時に慌てず活用できる住民の力を養う必要性を痛感しています。

 

 

第5回「医療者の過剰負担で支えてきた日本の医療」 平成24年02月02日

 

みんなで支える医療(患者・家族の負担低減化)をスローガンに、“国民皆保険制度”は長く我が国に根付き、今日まで継続してきました。

大学病院など総合病院の待ち時間の長さが、「3時間待ちの3分診療」という批判を受けていますが、欧米のように、専門病院に直接かかることもできず、受診までの期間を短縮するためには、高額な任意保険への加入を余儀なくされる状況を知れば、日本の医療環境がいかに恵まれているかが理解できるはずです。しかし、こうした“フリーアクセス(誰でもどこにでも受診できる)”のしくみが、専門医志向の強い日本の国民性とつながり、総合病院に患者が集中し、当たり前のように長時間待つことにつながったのです。待ち時間中、医療者は休んでいるのではなく懸命に診療しているのですから、いちいち「お待たせして済みません」とお断りして患者を迎え入れる医療者の対応には気の毒さすら感じます。欧米と比べ、医療者の絶対数が少ない上にこの皆保険制度による影響から、受診回数・入院日数は欧米諸国の概ね4倍であり、医療にかかりやすいという安心感の一方で、頼りすぎの欠点が露呈してしまっています。専門的医療に安易に頼ってしまう環境をつくってきたこれまでの我が国の制度をみんなで考え見直す時期にきていると思います。

日本の総医療費は30兆円を上回り、その内の公費の占める割合は8割に及び、国の税収や予算と比較すれば負担が極めて大きいことは言うまでもありません。しかしそれでも、GDP比で国際比較すれば先進諸国内で最も低い水準であり、日本の制度が安上がりであることは、国際的にも注目を集めているところです。

わが国の現行医療制度を導入するために、米国上院議員のヒラリー・クリントン氏が何度か来日していますが、結局“クレイジー“と捨て台詞を残して諦めたと聞いています。医療者の激務を前提条件としたこの制度は、経済的に豊かで休暇も多く患者数も限られている米国の医療者にはとても受け入れは不可能であろうと推測できるからです。例えれば、米国は「江戸前の高級寿司職人」、日本は薄利多売の「回転寿司店員」。同様の技能(スキル)や安全性を求められるには余りにも環境が違いすぎだと思います。

医療費抑制が言われ、厳しい医療経営を強いられている医療者は、すでに過剰な業務に追い回されており、“疲弊”という言葉が象徴するように、厳しい環境の中で燃え尽きている現況にあります。何とかするためには、この実情を十分認識して、医療に依存するのではなく、医療を地域で守り育てる住民意識の向上が第1に求められるのです。

 

 

第6回「医療への”依存”から”活用”へ」平成24年02月02日

 

筆者は診察が目的ではなく、患者さんと対話するために、毎週病棟内を回診しています。入院したばかりの患者さんには、「入院は退院するためですよ」「病気と立ち向かうだけではなく、どういう状況になったら退院したいか、医療者に本音を伝えてくださいね」とお話します。しかし、退院が近くなった患者さんに「退院したら、何がしたいですか?」と尋ねると、ほとんどの方が「考えていません」と返事をされます。医療の進歩とともに医療への依存度が増しています。それは、自分の生・死を医療に委ねるということです。医療によって自分の人生が著しく影響を受けるのです。このような状態で、患者さんが自分らしい人生を送れるでしょうか。是非医療に頼るのではなく、自分らしい人生を全うするために、医療の活用を考えてみてください。

それにはまず、自分がどう生きたいのかを日ごろから考えておくことが肝要です。もしも病に倒れてしまったらどうしたいのか、どうして欲しいのかを、日頃から家族や仲間と一緒によく話し合っておいて下さい。

次に、“総合病院志向“を改めることです。言うまでもなく総合病院のような急性期病院は高度専門的な診断・治療を行うところです。限られた期間に限られた疾患に対処するための機関であり、そこは患者さんと医療者が生活全般にわたって継続的なコミュニケーションをするには難しいところなのです。医療を活用するには、信頼し相談できる“かかりつけ医”を身近に見つけることが一番です。自分がどんな生き方・死に方をしたいのかを分かってくれている主治医と相談しながら、必要に応じて専門機関を利用することが、最も良い方法だと思います。

また普段から、自分の周囲にどのような資源があるかを知っておくことも必要です。自分らしい人生を送るために役に立つ制度や施設などを知っておくとともに、地域の中でお互いが助け合える関係性を作ることも大切です。

患者さんが具体的な希望を言ってくれることで、医療側は希望を実現するためにどのような支援をすることが望ましいのか、明確な方針を提示することができます。患者さんが目標を持つことで、患者さん自身の内なる力が引き出される(エンパワメント)相乗効果により、医療側も適切な治療が行えます。またそうすることで、患者さん自身の治癒力も向上するのです。

患者さん自らが目標を持ち、家族や医療者等とそれを共有し、その実現に向かって協働することにより、お互いの持っている“力”を発揮すること。こうして医療を活用し、自分らしい生き方を目指していただきたいと願っています。

 

 

第7回「患者を医療チームの一員に」 平成24年02月02日

 

医療チームと言えば、医師を中心とした多様な医療者間の連携を連想するでしょう。最近では患者さんを中心において、周りをいろいろな医療者が囲み全ての矢印が住民の方へ向く図で 患者主役の医療体制の在り方が説明されています。しかし医療者と患者との信頼関係や互いのコミュニケーションが強調される時代の中にあっては、思い切って患者自身が医療チームの一員として参画し、同じ目的の実現に向けて協働するといった考え方はどうでしょうか。

医療チームが患者に「してあげる」から「支援する」へと発想が変化し、患者と共に「患者ニーズ(わがままではなく本当に望んでいること)を実現する」といった意識改革を期待しています。患者を医療チームと区別せず、目的を共有した同じ仲間とすることが“早道”だと思います。サービスの提供者とそれを受ける側といった関係を超えて、目的達成のための同志と位置づけることにより、患者自らの選択や安心は確保され、そのことによる患者満足度は向上するにちがいありません。患者を含めた医療チームというこのとらえ方は、事故防止を目的とした安全対策マニュアルや、注意喚起等の医療者側に限定した医療安全対策を見直し、より快適な医療環境作りを患者とともに構築するという観点からも極めて有効だと考えます。

患者が医療チームの一員となるための環境をどう整備していけばいいのか。以下に、いくつかのポイントを列挙しました。いかがでしょうか?医療者や行政だけでなく、やはり住民・患者自身が努力しなければなりません。

1)自己健康管理の重要性や命の尊さなど保健・医療・福祉に関する知識を身につけ、健康や疾病・障害と主体的に向き合える力を養える学校教育や社会教育を進める。

2)患者側の真のニーズを明確にし、日頃から患者自身が自分の意志を声に出せるような患者力を育てると共に、その声が医療に反映される環境をつくる。

3)健康な時から住民が医療機関と接点を持てる環境をつくる。例;①医療ボランティアの受け入れ、②地元住民向けセミナーの開催、③多様な住民の相談に対応できる窓口の設置、④医療施設内に住民の集まりやすい場所を設ける等。

4)入院当初に、診断治療だけでなく退院やその後の生活などについて、医療者と患者が十分話し合う場や機会を設ける。

5)入院早期から、退院後に関わる院外関係者とともに話し合う機会を設ける。患者の状態やニーズを共有し,経過を継続的に観察できる体制を構築する。

6)患者は最も鋭いアンテナを持った医療チームの一員との観点から、患者会を充実し、ピアカウンセリング(患者同士の相談)として他の患者支援に関わるとともに、安心して地域で医療やケアが受けられる環境整備に協力する。

 

 

第8回「医療を生活の資源として取り戻す」 平成24年02月02日

 

医療の進歩とともに、人の“生”や“死”に直面する機会が、日常生活から切り離され、多くは医療施設内に限られるようになってきました。そのことで住民は 生や死が現実の生活から切り離され、命の尊さの実感や死ぬことの認識が低下し、自分らしい生き方の自己決定力や健康感についての自覚も乏しくなってきているように思います。一方医療者側は、医療制度や診療報酬改訂に振り回され、患者のニーズや地域特性など最も考慮すべき本来のEBM(医療を行う上での科学的根拠)への軽視化と共に、医療の進歩とは言いながら 医療者側の都合を重視した技術サービスの提供が先行してきたように思われます。この“ズレ”が 医療者と患者・住民との信頼関係の低下の大きな原因になっているように感じています。

また、医療にかかりやすいという安心感の反面、医療に頼りすぎる弊害を招くといった 日本の国民皆保険制度からくる問題も否めません。健診を受けない理由の第一位が、「調子が悪くなったら医療機関を受診する」であることは、この一面を端的に表していると思います。医療にかかれば何とかなるといった 依存心による「安心感」は、主体的な健康づくりや自分らしい死に方を想定した生き方を阻害する要因にもつながります。

医療への過剰依存を見直して この状況から脱却し、医療を生活資源として活用する意識や体制作りが課題です。枝葉ではない根幹の議論を通じて、「健康を守る社会基盤の再構築」を目的に、医療を地域の資源として取り戻す地域の取り組みが不可欠だと思います。

昨今のマスコミの報道が、1) 医師・医療者不足、2)医療訴訟・医療安全、3)コンビニ受診、4)モンスターペーシェント、5) 医療者の疲弊、6)住民・患者の不安増加、7)医療・介護難民の急増など、興味本位的な不安をあおる表現に偏っている傾向もあり、医療者と患者との信頼関係の崩壊を助長する原因になっているようにも思えて仕方がありません。断面的かつインパクト重視の映像やコメントでは全体像が見えないし、物事の本質を見失う要因となります。たとえば、“たらい回し”や“医師不足”は表面化した事象であって、現代の医療問題の本質ではありません。

医療者と患者との間だけでは解決しがたい課題でもあり、多くの関係機関が協働することが解決への唯一の道なのです。行政・教育・産業・マスコミなど地域資源を総動員した、健康を守るための社会水準の向上が求められています。

 

 

第9回「被災から学ぶ~生活不活発病に注意~」 平成24年02月02日

 

東日本地震・津波による大被災はいまだ多くの課題を残しています。その一つとして、仮の住処でのいわゆる避難生活に伴い、被災した高齢者等の方々に、生活の不活発化を原因とする心身の機能の低下、いわゆる「生活不活発病」の発症が危惧されています。これまで築いてきた財産はもとより、日常生活の役割や生きがいまでも失った中で、何もすることが無くなり「動かない」状態が続くことにより、心身の機能が低下して、本当に「動けなくなる」状態を指します。特に高齢の方や持病のある方は起こしやすく、血管に血栓を作り重篤な疾患を引きおこすエコノミック症候群や、認知症を発症・悪化させたり、うつ病を併発したり、さらに寝たきり状態になったりといった悪循環をおこすことになります。いわゆる“引きこもり老人”と同様の状態を招くことになります。

生活不活発病を予防するためには、生活を活発にすることが重要であり、“予防のポイント”として、以下のことが提案されています。

○ 毎日の生活の中でできるだけ動くようにする。

○ 家庭・地域・社会で、楽しみや役割を持ち、散歩やスポーツ、また趣味もしっかり持つ。

○ 歩きにくくなっても、すぐに車いすを使うのではなく、杖や伝い歩きなどの工夫をしてできるだけ足を使う。

○ 身の回りのことや家事などがやりにくくなったら、「仕方ない」と思わずに早めに相談し、自ら工夫や練習して上手に生活する。

○ 疲れ易い時は、少しずつ回数多く。病気の時は、どの程度動いてよいか相談をするなど、とにかく「無理は禁物」「安静第一」と思いこまないで、できるだけ身体を動かすようにする。

実は以上のような悪循環が、病院においても日常茶飯事におきていることを知る必要があります。自ら動ける患者さんが、真っ昼間布団をかぶって寝ている状況を目にすることがよくあります。病院は“病気と戦う場”として位置づけられ、そのため病気の診断治療が最優先され、そのために生活自体が犠牲にされることが少なくありません。入院により生活が見えなくなり、希望を持たないまま医療への依存が増して、同様の悪循環をおこし、例え病状自体は改善・回復したとしても、動けなくなり認知症が進んで、元の生活の場に戻れなくなることが危惧されます。

「何のために入院するのか?」・・・どんなに重症であり治療に専念する必要があっても、その人らしい人生を実現するために医療は活用されるべきであり、そのためにも入院が生活と隔絶された特殊な環境となってしまうことは避けるべきだと思います。

櫃本氏:第10回「生き抜くために緩和ケアを正しく知っておこう」

 

 

第10回「生き抜くために緩和ケアを正しく知っておこう  」平成24年02月02日

 

“緩和ケア”という言葉を聞かれたことがありますか。とても誤解が多いのですが、緩和ケアはターミナルケアいわゆる終末期医療といった末期がんに限ったものではありません。主治医から「やれるだけの治療はやったので後は緩和ケアだけですね」と最後通告ともいえる説明を受けるケースが、未だに少なくないのも事実です。医療者ですら理解不足ですので、一般的に誤解が多いのも仕方ないですね。しかし本来は、治る・治らない、早期・末期に関わらず、すべてのがん患者さんに必要なケアであり、最近ではがんでなくとも、心疾患・呼吸器疾患・神経難病など根治し難いすべての疾患に対象が広げられてきています。

緩和ケアのキーワードである「全人的ケア」「疼痛緩和」「その他の症状緩和」「インフォームド・コンセント」「チーム医療」「生命倫理」はあらゆる医療において必須です。人が生まれ、生き、病を得て、死を迎える。そういったすべての人に訪れる「生・死」に関わるのが緩和ケアです。死を考えることにより、今生きている意味を振り返り、QOL(生活の質・いきがい)の向上を図るためにも、緩和ケアは重要な支援となります。がん患者の多くは、たとえ早期でも死を考え精神的に落ち込むのは常だと思います。また病気だけでなく経済的な不安も少なくないでしょう。医療の進歩により、治る病気は増えたように思われますが、世界一の高齢社会では、治らない疾患も急増しています。悪いところを見つけだし標的として治療する、悪因を叩くといった外からの力による医療よりも、その人らしい人生を実現するためのケアが、患者の主体性を向上し、自らの治癒力を引き出すことにつながります。このようなエンパワメント(内なる力を引き出す)医療が、緩和ケアの根幹であり、ますます重視されることになったと思います。

しかし、医療の現場では延命のための病気と闘う治療が優先され、痛みや呼吸困難で苦しむ患者さんが多く存在しています。人間の死亡率は100%であり、治らない疾患が増えているにもかかわらず、未だ医療界では根治不能の患者さんは「敗北」との印象が払拭できていません。緩和ケアは決して後ろ向きではなく、積極的な全人的ケアであることを再度強調したいと思います。病気を治すことを一番としたこれまでの医師の価値観を変えていくためには、急性期病院主導の医療の現状では時間がかかると思われます。むしろ患者・住民の方が、緩和ケアの真意を理解して、医療者に明確な自らの生き方の意志を伝えることで、医療を変革していく大きな力となることを期待しています。

 

 

第11回「おらがまちの病院づくり~医療ボランティアの勧め~」平成24年02月02日

 

超高齢社会を生き抜くには、医療を生活資源とする取り組みが重要だと申し上げてきました。検査や服薬など疾病管理の折に、あるいは突然の病に倒れた際に、普段は生活と隔離された病院にその時だけ委ねるのではなく、地域で自分らしく生活するために、日常の延長線上に医療資源が活用されるような、住民意識の醸成が必要だと痛感しています。

また、医療で地域を活性化する、つまり医療が参画することによって、地域が潤う・活性化するといった、“生活医療”を必要条件とした地域づくりが重要だと思います。 “おらがまちの病院”づくりが、医療崩壊からの回復と今後の地域活性化のキーワードとなると思います。

これからの病院づくりは、患者のためだけでなく、治療の必要性のない時から、健康の是非にかかわらず誰もが訪れやすく、自分らしく生きていくための生活資源となることが大切です。入院関連以外の医療施設は、地域とのコミュニケーションを図る場として、快適な環境に整備されることが期待されます。

愛媛大学病院では、医療ボランティアの養成と協働に力を入れており、全国でも最も多い会員数約230名の“いきいき会”が院内外で活躍されています。患者さんの送迎や相談支援、イベント開催や病院づくりに取り組んでいただいています。また、医療コンシェルジュ(事務職および看護職等)の導入を県下に先駆けて行っており、“おもてなし”の姿勢を重視しています。さらに図書室の充実を図り、ボランティアと看護師等職員が協力して、気軽で身近な相談ができる場所、健康に関心が持てる機会づくりに努めています。病院レストラン・喫茶・売店(手作りパン屋さん)などの充実により、病院内にも地域住民が立ち寄る生活モールの整備を進めています。地元の老人会のご協力を得て、病院敷地内の樹木や草花の管理を行っていただいています。将来的には住民の安らぎの場となる散歩コースも設けたいと考えています。中越地震の経験をもとに、被災地域自体に災害に対応できる住民の確保が必要との観点から、災害ボランティアの養成を地元行政とともに行っており、約200名がすでに養成され、自主的な防災訓練を行うなど被災自立組織の醸成につながっています。

このように病院が地域の資源として参画する方法は様々ですが、患者や家族はもちろんのこと、医療ボランティアや地元行政、医療福祉関係者そして広く地域住民と共に、病院を育てていくという姿勢が大切です。中でも医療ボランティアは、医療者の手助けや肩代わりをするのではなく、患者・住民が医療者との距離を近づけ、また医療者に対しても適切な情報提供やアドバイスを提供できる重要なパートナーとなると期待しています。皆さんも医療ボランティアになりませんか?

 

 

第12回「健康の義務化」 平成24年02月02日

 

特定健診が始まって約3年半、メタボリックシンドロームいわゆる“メタボ”はずいぶん普及しました。またダイエット関連商品の売れ行きも好調で、何より私の周辺に明らかに努力してやせた方が増えました。確かに健康志向は急速に高まってきたように思います。一方“格差”は健康分野でも拡大し、健康に悪いと知りつつ、運動不足、高カロリー食、喫煙などを続けている人も少なくなく、二分化の状況を呈しています。

特定健診では、“内臓脂肪蓄積”に着目し「腹囲」を指標として導入したことは、極めて特徴的でした。欧米でも腹囲が測定されることはありますが、あくまで医療者と患者の一対一で、日本のように集団健診で、半ば強制的といった国民的事業として測定するようになるとは・・・ある意味まだまだ日本の国力は凄いなと痛感する次第です。

高血圧や喫煙などの健康危機要因を差し置いて、なぜ腹囲が優先されるのか? 男性が85センチ以上なのにどうして女性が90センチ以上なのか?・・・腹囲を指標にすることへ、多くの指摘がありました。内臓脂肪を正確に測定するにはCTスキャンのような検査を使わなければ把握できないし、腹囲よりもBMI(身長と体重から肥満の度合いを評価する指標)の方が、内臓脂肪との関連性が高い、さらには腹囲と健康指標との関連性がそれほど明確ではないなどと言った、批判も少なくありませんでした。にもかかわらず、どうして腹囲を計り続けるのか? その答えのポイントは、腹囲は本人にとってわかりやすくまたその増減を意識しやすい、つまり腹囲が増えると言うことは、健康管理意識が低いからという自己責任を促しやすいところにあります。

特定健診の一番の狙いは、糖尿病の重篤な合併症である腎不全を予防し、ひいては多額の医療費を要する腎臓透析患者を減らすことでした。日本の国民皆保険制度は、世界に冠たる「もっとも医療にかかりやすい環境」を保証しています。しかし安心感が得られる一方で、過剰依存を助長し、日頃の自己健康管理をおろそかにするといった問題があります。自ら気をつけていようがいまいが、支払う保険料が同じであることはかえって不平等であり、生活習慣病は自業自得、太っている人は自己責任のもと、将来的にはそれ相応の保険料の負担をすべきだという考え方も生じています。

医療費はいくらかかっても、命の問題だから・・・とは言っていられない厳しい現実に直面しています。消費税の話題が総理大臣交代の度に登場するのは無理のない話です。“健康の義務化”という言葉は、冷たいように感じますが、しっかりと受け止め、国民の義務として医療費を無駄使いしない、自らの生き方死に方を考え行動しなければなりません。

 

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