先日の敬老の日。

シルバーウィークということもあり、少し時間に余裕ができました。季節の変わり目を感じながら、数日かけて家の断捨離もしました。
私自身、もうすぐ72歳になります。
「敬老の日」と言われれば、もちろん私も立派な高齢者です。
でも、どうも自分が「敬われる側」「いたわられる側」になったという実感はありません。それよりも、これから自分はどう生きたいのか。そんなことを改めて考える時間になりました。
年齢とともに増えてくる「べき」
年齢を重ねると、経験は増えます。
それ自体は素晴らしいことですが、一方で経験が増えるほど、
「こうするべきだ」
「普通はこうだ」
「自分の考えが正しい」
という思いも強くなりがちです。
人は、自分が正しいと思えば思うほど、その「正しさ」を他人にも求めてしまいます。
これは高齢者に限ったことではありません。専門家であっても、組織のリーダーであっても、社会的に大きな力を持つ人であっても同じでしょう。
「世の中を良くしたい」
「みんなのためにこうした方がいい」
そんな善意や使命感から始まったとしても、「自分が正しい」という思い込みが強くなりすぎれば、違う考えを受け入れられなくなる。
周囲にも自分と同じ意見を求めるようになり、いつの間にか多様性が失われていく。
力を持つ人ほど、これは怖いことだと思います。
だからこそ私は、年を取れば取るほど、「べき」や「思い込み」から自由になりたいと思っています。
同窓会で、昔のことを覚えていない
私は同窓会が好きです。
ところが最近、同窓会に出ると困ることがあります。
「あの頃、こんなことがあったよね」
「あの時、お前こうだったよな」
と懐かしい話をされるのですが、私は結構覚えていないのです。
みんながあまりにも詳しく覚えているので、
「あれ? 本当に僕も同じクラスだったんだろうか?」
と思うくらい(笑)。
分かったような顔をして、うなずいていることもあります。
格好よく言えば、「私は過去を振り返らない」ということでしょうか。
もちろん過去があるから今があります。失敗から学ぶこともあります。
でも、過去の失敗をいつまでも悔やむ必要もなければ、過去の栄光を何度も取り出して自慢する必要もない。
特にこれからの「現役高齢者」に必要なのは、
「あの頃はよかった」
ではなく、
「これから、どうしたい?」
という会話ではないでしょうか。
そんな話のできる仲間が、私は欲しいと思っています。
私の好きな言葉、「まあ、いいか」
患者さんを診ているとき、身体のことだけでなく、
「最近、何か悩みはありませんか?」
「人間関係はうまくいっていますか?」
と尋ねることがあります。
「大丈夫ですよ」
とニコッと笑って答えてくれれば、それで終わります。
ところが、中には「うーん……」と考え込む方がいます。
その瞬間に涙が出てくる方もいます。
短い診察時間ですから、すべてを解決できるわけではありません。
そんなとき、私は時々、
「まあ、いいか、も大事ですよ」
とお話しします。
すると、少し表情が緩んで、
「そうですね」
と笑って帰られる方がいます。
私は、この「まあ、いいか」という言葉が結構好きです。
「どうでもいい」ということではありません。
諦めることでもありません。
自分とは違う考え方があっても、
「まあ、それもあるよね」
と思える。
失敗してしまった自分にも、
「まあ、いいか。次に行こう」
と言える。
人の考えに同調する必要もないし、流される必要もない。
でも、否定する必要もない。
「まあ、いいか」は、こだわりを少し緩めて、次へ進むための言葉なのだと思います。
断捨離をして気づいたこと
このシルバーウィークには、家の断捨離もかなりしました。
いずれ子どもたちに家を引き継いでいくことを考えれば、親の残した大量の荷物で困らせるわけにもいきません。
ところが、いざ捨てようとすると迷います。
「これは取っておいた方がいいかな」
「いつか使うかもしれない」
「思い出があるしなあ」
でも、思い切って捨て始めると、逆のことにも気づきました。
こんなに、なくても困らないものに囲まれて生きていたのか。
物だけではないのかもしれません。
過去へのこだわり。
人からどう見られるかという意識。
自分なりの「常識」。
そして、「こうあるべきだ」という思い込み。
人生の後半は、何かを増やしていくだけではなく、いらなくなったものを少しずつ手放していく時期なのかもしれません。
物の断捨離と一緒に、心の断捨離もしていく。
そうすると、これからの人生に新しいものが入ってくる余白が生まれます。
過去より「ありたい自分」
私が大切にしたいのは、
「これまで何をしてきたか」
より、
「これから、どうありたいか」
です。
人を元気にするために生きたい。
自分自身も磨き続けたい。
新しい人と出会いたい。
新しいことにも挑戦したい。
そして、自分とは違う考えを持つ人とも対話できる人間でいたい。
そのためには、自分の中にある「べき論」を少しずつ手放していく必要があるのでしょう。
AIが間に合ってくれた
そして、この年齢になって非常に面白いものに出会いました。
AIです。
私は時々、
「よくぞ私が生きている間に間に合ってくれた」
と思います。
AIに人生を決めてもらいたいわけではありません。
むしろ逆です。
自分が何をしたいのか。
どんな医療をしたいのか。
どんな人たちと仕事をしたいのか。
これからどんな自分でありたいのか。
漠然としていたイメージを対話によって膨らませ、言葉にし、具体化していく。
そんな使い方ができることに、私は大きな可能性を感じています。
正解を教えてもらうためではなく、「ありたい自分」を見つけるためにAIと対話する。
これからの私にとって、AIはそんな道具になりそうです。
「敬老される人」より、「敬老する人」でいたい
敬老の日は、「お年寄りを敬う日」です。
もちろん、敬っていただけるのはありがたいことです。
でも私は、できれば「敬老される側」に収まってしまいたくありません。
何歳になっても、自分の方から人を敬い、人に関心を持ち、人を元気にする側でいたい。
慰労される人というより、まだチャレンジャーでいたい。
72歳になろうとしている今、そんなことを思います。
年齢を重ねるほど頑固になるのではなく、年齢を重ねるほど柔らかくなる。
「こうあるべきだ」ではなく、
「こうありたい」。
そして時には、
「まあ、いいか」
と笑って手放す。
過去の自分にしがみつかず、これからの自分を面白がる。
そんなふうに年を重ねていけたら、これからの人生はまだまだ面白いのではないかと思っています。