「べき」から離れると、人は少し自由になる

   

――正解を押しつけるのではなく、「ありたい姿」を共有する

最近、あらためて気になる言葉があります。

それは、

「こうあるべきだ」
「こうすべきだ」

という「べき」という言葉です。

政治家、行政、専門家、報道に登場する識者……。

社会が不安定になればなるほど、いろいろなところから「べき」という言葉が聞こえてくるような気がします。

もちろん、「べき」という言葉そのものが悪いわけではありません。

自分自身について、「私はこうありたい」「こうしたい」と考える。その延長として、自分への戒めとして「こうすべきだ」と考えることもあるでしょう。

また、大きな社会を維持するためには、一定のルールや規範が必要です。

しかし、私が気になるのは、自分の中にある「べき」が、いつの間にか他人にも適用され始めることです。

「べき」の向こう側には、誰がいるのか

「人はこうあるべきだ」

そう言った瞬間、その反対側には、

「そうでない人」

が生まれます。

「こうすべきだ」と強く言えば言うほど、「そうしない人は間違っている」という空気が生まれやすくなります。

専門家であれば、専門知識という裏付けがあります。

政治家であれば、社会を動かす力があります。

行政には制度があります。

だからこそ、「べき」という言葉には大きな力があります。

しかし、専門家が違えば、示される「べき」が違うこともあります。

時代が変われば、かつて正しいと思われていたことが、そうではなかったと分かることもあります。

私たちは歴史の中で、そのことを何度も経験してきました。

だから私は、「べき」という言葉が出てきたときほど、

「本当にそうだろうか?」

と少し立ち止まりたいと思っています。

正解よりも「納得」を

私は医療者として、多くの人と接してきました。

医療の世界にも「べき」はたくさんあります。

「運動すべき」
「痩せるべき」
「薬を飲むべき」
「生活習慣を変えるべき」

医学的には、それなりの根拠があるのでしょう。

しかし、それを一方的に伝えるだけなら、専門家は「正解を教える人」で終わってしまいます。

その人がどんな生活をしているのか。

何を大切にしているのか。

何に困っているのか。

そして、

「自分はどうありたいのか」

そこを聞かずに正論を伝えても、なかなか人の行動は変わりません。

正解が分かっていても、できないことはたくさんあります。

そもそも、人生には一つの正解などないことの方が多いのです。

だから私は、専門家に求められるのは、

「正解を与えること」ではなく、「その人が納得できるところまで一緒に考えること」

ではないかと思っています。

「べき」が増えると、対話が減っていく

会議でも同じです。

誰かが強く、

「こうすべきです」

と言い始める。

すると、いつの間にか議論が、

「正しいか、間違っているか」
「賛成か、反対か」

という構図になっていきます。

本来はいろいろな考え方があったはずなのに、敵と味方のように分かれていく。

そして「べき」を実現するためにルールが作られ、マニュアルが作られ、違反や罰則が設けられる。

もちろん、社会にはルールが必要です。

しかし、ルールを増やすことと、人が主体的に動くことは同じではありません。

むしろ「べき」で人を動かそうとすればするほど、人は「やらされている」と感じるようになるのではないでしょうか。

「こうあるべき」ではなく、「こうありたい」

私は以前から、

「この指とまれ」

という言葉を大切にしてきました。

「みんな、こうしなさい」ではありません。

「私はこんなことを実現したい。もし同じ方向を向いてくれる人がいたら、一緒にやりませんか」

という呼びかけです。

そこには強制はありません。

あるのは、

「こうありたい」

というイメージです。

一人ひとりの「ありたい姿」は違っていていい。

けれど、それぞれの「ありたい」が少しずつ重なるところがあれば、そこに人が集まり、お互いの力を引き出し合うことができます。

私は、それが本来の「縁」なのだと思っています。

自分らしく生きるために

「自分らしく生きるべきだ」

この言葉さえ、私は少し不思議に感じます。

自分らしく生きることを他人から命じられた瞬間、それはもう「自分らしく」ではないからです。

自分らしさとは、

「こうすべきだ」

ではなく、

「私はこうありたい」

から始まるものだと思います。

もちろん、自分の「ありたい」が誰かを傷つけたり、周囲に大きな負担をかけたりするのであれば、見直す必要があります。

だからこそ、人の話を聞く。

違う考えに触れる。

支えてくれる人に感謝する。

そして、自分自身の「ありたい姿」も少しずつ磨いていく。

そうした姿勢があれば、「べき」という言葉は自然と少なくなっていくように思います。

謙虚さとは、小さくなることではない

私は「謙虚」という言葉も大切にしたいと思っています。

ただ、謙虚というと、

「言いたいことを言わない」
「周囲に合わせる」
「長いものに巻かれる」

といった、少し消極的なイメージで捉えられることがあります。

私はそうではないと思います。

本当の謙虚さとは、

「自分の考えが唯一の正解ではない」と知っていること。

自分の考えをしっかり持ちながら、同時に、相手にもその人なりの考えと人生があることを認める。

だから話を聞くことができる。

だから対話ができる。

そして、お互いの力を引き出し合うことができる。

それが私にとっての「謙虚さ」です。

「べき」から、「ありたい」へ

私自身も専門家の一人です。

だからこそ、気をつけなければならないと思っています。

知識や経験が増えるほど、「こうすべきだ」と言いたくなる。

しかし、専門家だからこそ、「べき」を振りかざさない。

正論を押しつけるのではなく、その人の言葉を聞く。

その人が、

「私はこうありたい」

と思っているところから、一緒に考える。

正解ではなく納得を支える。

指導するのではなく伴走する。

これまで私が大切にしてきた「この指とまれ」も、結局はそこにつながっているのだと思います。

「こうあるべき」から、「こうありたい」へ。

「べき」を一つ手放すだけで、自分自身も少し自由になる。

そして、目の前の人も少し自由になる。

その自由の中から、それぞれの力が引き出され、互いに支え合う「縁」が生まれてくる。

これからも私は、「べき」という言葉が口から出そうになったとき、一度立ち止まってみたいと思います。

そして問い直したい。

「本当に、そうすべきなのだろうか?」

その代わりに、

「私たちは、どうありたいのだろう?」

と。

その問いから始まる対話を、これからも大切にしていきたいと思っています。

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